兵庫県多可町で、本業のデザイナーのかたわら民泊やレンタルスペースとして利用できる古民家空間 kotonohaを運営する小椋聡さん・朋子さん夫妻。2005年、聡さんは通勤途中にJR福知山線脱線事故に遭遇しました。

 

ご本人も怪我を負いつつ、遺族との活動や事故調査に取り組む中で、聡さんを支えていた朋子さんが心的ストレスから双極性障害を発症しました。

 

朋子さんと聡さん、それぞれに発症の原因となった脱線事故のこと、そして障害との向き合い方についてお話を伺いました。

 

目次

 

 

あの日が近づくと落ち込む体調。それでも夫と過ごす日々を経て波はおだやかに

 

 

朋子さん:以前と比べると躁うつの波はおだやかになりました。波の訪れ方は一定ではありませんが、4月25日(JR福知山線脱線事故が起きた日)が近づく春は体調が落ち込みます。それが過ぎて夏ころになるとだんだんと回復していきます。

 

とはいえ、今でもうつ状態のときは家で寝て過ごすことが多いですね。夫が出張などで家を留守にするとすぐにでも悪化しそうになります。

 

でも、彼は「必ず帰ってくるんだ」と信じ込めば大丈夫。事故の時も帰ってきてくれたんだからって。

 

躁状態になると大して欲しくもないものをネットショッピングで購入してしまったり、無性に出かけたくなったり。眠りにくくなることもあります。

 

2013年に西宮市の生瀬から多可町に引っ越したことは(病状の安定にとっても)良かったと思います。生瀬で生活をしているとどうしても福知山線が目に入りますし、土地が持っている記憶のようなものがありますから。

 

ここは山に囲まれていて、時間もゆったりと流れているので安心します。

 

オルガニストである私は、脱線事故以前から大阪の教会で定期的にパイプオルガンを弾いていました。それは私にとって大きな意味があるものだったので、引っ越しをした後も演奏を続けられたこともまた、症状改善に効果があったと思います。

 

でも、やっぱり一番は夫が傍にいてくれること。

 

事故から3年後に彼が会社を辞めて独立したので、今はほとんどの時間を一緒に過ごしています。夫がいてくれなかったら、今ここに自分はいませんでした。

 

 

遺族でも負傷者でもない人間が心に傷を負うとは誰も思わなかった

 亡くなった家族がどの車両に乗っていたのかさえ分からない遺族がたくさんいたので、「愛する家族が最期にどこにいたのかを知りたい」という願いをかなえるために、遺族の方々と長い時間を共に活動しました。

 

いろんな世代の方がいましたが、家族のように仲良くなった周りの人が泣き、取り乱している姿を見るのはとてもつらいことです。「私が支えないといけない」「悲しくても私は泣いてはいけない」と思っていました。

 

 

特に私たちを打ちのめしたのは、事故で夫を亡くし、一緒に活動していた遺族の方が自殺したことでした。

 

亡くなった方と仲の良かった別の遺族の女性を一人にしておくことができなかったので我が家に来てもらって、夫、私の3人で一ヶ月半ほど一緒に暮らしました。仲の良かった方は自分を責め、夫も精神的に参っていました。2人がそういう状態でしたから「私がなんとかしないといけない」と必死でした。泣くことができなくなりました。

 

私は遺族でも負傷者でもありませんから、周りの人から掛けられる声はほとんどが「頑張って」「支えてあげて」。

 

当時、事故被害者の精神的ケアを行っている支援機関に行ったとき、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のテストをすることになりましたが、テスト用紙が渡されたのは夫だけ。家族にまで心の傷が波及するとは思われていなかったんでしょうね。

 

 

幻覚や体のしびれ。真っ暗な部屋で「死にたい」ばかり考えた

しばらくして、私もうつの傾向があるということで診察を受けることになりました。

 

この頃からストレスにより眼圧が異常に高くなって目の調子が悪くなり、翌年からは聞こえないはずの音や音楽が聞こえ、白い紙に黄色い模様が見える幻覚症状も出るようになりました。手足がしびれ、他人とのコミュニケーションがうまく取れない状態でした。

 

当時はなかなか自分に合う薬が見つからず薬の副作用に苦しみましたが、今は合う薬が見つかって比較的安定しています。

 

精力的に活動する夫とは対照的に、食事が取れず極端に痩せてしまった私は3週間ほど入院することになりました。退院後もほとんど家で横になり、電気もつけずに考えていたことは「死にたい」「消えてしまいたい」ばかり。

 

躁の波が来ると、今度はネットショッピングで服やカメラなど高額の買い物をしたり、3日間寝ずに掃除をし続けたりしました。躁とうつの移り変わりの頻度も、1日の中でさえ変動するほど激しいものでした。

 

どんなに症状がひどくても教会でパイプオルガンを弾くことだけは死守しましたが、それ以外は何も考えられない状態でした。

 

 

病気になると分かっても、きっとまた同じことをする

病気になると分かってもまた同じことをする

 

2008年、二ヶ月間ほど閉鎖病棟に入院しました。今思えばこれが症状改善にとても効果があったと思います。

 

当時はつらかったけど、自殺に使えるようなものは一切持ち込めない部屋に放り込まれて物理的に社会から隔離されたことで、新聞やテレビ、ネットなどの報道も目にすることが無くなり、脱線事故とも距離を取ることができました。

 

それまでは脱線事故に関する記事をインターネット上で探し、見つけてはコピーして保存する。それを毎日繰り返し、夫への取材にも必ず立ち会っていました。それら全てが入院したことでできなくなったんです。

 

病院での治療では、信頼できる医師とカウンセラーに出会えたことも恵まれていました。医師もカウンセラーも、15年間ずっと同じ方です。これまでに私が経験したことや話したことを全て知っていてもらえるので、安心して話すことができます。カウンセラーに話を聞いてもらえなかったら、これほどには改善しなかったと思います。

 

外傷体験を負った人の話を聞くことで起きる被害者同様のストレス障害を「代理受傷」(二次受傷)と言うそうです。私自身は医師から直接診断名を聞くことはありませんでしたが、夫と行動し、遺族や負傷者の方々と一緒に取り組みに関わったことで代理受傷を負い、双極性障害を発症しました。

 

ただ、後悔はありません。

 

もし病気になると分かっていたとしても、私は同じことをしたと思います。

 

 

震災や新型コロナで負う傷も。現実から離れ、自分を楽にして

東日本大震災や新型コロナウイルス感染症に関しても、つらい思いを抱く被害者の方やニュースに触れてショックを受ける方がいると思います。そういうときは「見ておかなければ」という気持ちを少し我慢して、ニュースなどを見るのを控えるといいと思います。

 

当事者だと、知れば知るほど共感をしてどんどん苦しくなっていきますから。少し現実から離れて、自分を楽にしてあげてほしいです。

 

そして周囲に悩んでいる人がいたら、「そんなことで悩んでないで…」と無理に励ますのではなく、寄り添ってあげられたらいいのではないかと思います。

 

 

脱線事故に遭い、妻を支える夫・聡さんのインタビューはこちら

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JR福知山線脱線事故

2005年4月25日午前9時18分頃、JR西日本福知山線の塚口駅〜尼崎駅間で快速電車がカーブを曲がりきれずに脱線転覆、線路沿いのマンションに激突した列車事故。乗客106名と運転士1名が死亡、562名が負傷した。

 

国立研究開発法人科学技術振興機構「「トラウマへの気づきを高める“人・地域・社会”によるケアシステムの構築」(発行物)

 

 取材・執筆:上野舞

小椋朋子

音楽大学の器楽学科パイプオルガン専攻を卒業後、演奏活動を始める。一般社団法人日本オルガニスト協会会員。日本基督教団大阪教会オルガニスト。

 

小椋 聡

音楽大学の作曲学科卒。美術関係の展覧会の企画運営と出版・編集デザイン会社勤務を経て、イラストレーション&編集デザインを手がける「コトノデザイン」を創業。教育プログラムの企画開発や地域振興の取り組みなどに携わる。夫婦での共著「JR福知山線脱線事故からのあゆみ〜ふたつの鼓動(コトノ出版舎)」がある。